傍らで共にあること
2025.02.19
うれしい体験もありました。何か行為をして、それが患者さんにとってほんとによかったのかどうかということはなかなか確かめることができません。精神科でケアを評価するのはとても難しい。患者さんは喜んでくれるわけでもないし、「何しに来たのよ、あっち行ってよ」なんて言われながらその場にいることだって必要なわけですから。そんな中で、長い六十何年の間で唯一の体験だと思うのですが、とても患者さんに感謝された体験があります。
その人はボストンバッグ抱えてホールに出てきて、ボストンバッグの中のものをまき散らし始めました。しばらく「なんでこんなことをしているのだろう」と思って見ていたのですが、なんとなく彼女のそばにいってみようかなという気持ちになったので、横に座って患者さんが放り出したものをたたんで重ねていくという作業を無言で続けました。彼女が広げる、私がたたむということを3、4回繰り返したあと、最後に私がたたんだのをボストンバッグに詰めて彼女は部屋に戻っていきました。なんだったのだろうとずっと思っていたのですが、分かりませんでした。2年か3年たってからのことです。外来でバッタリ彼女に会いました。そうしたら「坂田さん」って抱きついてきて「坂田さん、あのとき一緒にいてくれたよね。うれしかったよ」と彼女が言うのです。一言も話していないんです。お互いに。ただ、無言で出して入れて、出して入れてということを繰り返していただけなのです。
そのときに、言葉じゃないんだということがすっとわかったのです。存在、そばにいること、ともにあることの意味のようなものでしょうか。そのときのことは、なかなか言葉では表現できないのですが、何かそこにいてあげたくなって、いることが苦痛ではなくて、最初の始まりは「なんでこんなことするんだろう」という思いでしたけれど、そのやりとりをしている間、不快でなかったことは確かです。彼女が快であったかどうかは分からなかったのですが、その彼女の一言を聞いて、あのときやっぱり彼女も不快ではなかったんだっと分かって、こちらが不快じゃないときというのは、もしかしたら相手も不快じゃなくいてくれるときなのかもしれない。そういう2人がともにいることで時間がつぶせたら、それはそれですてきなことかもしれないということを学びました。ですから、コミュニケーションは言葉ではないということもとても大事なことのような気がしています。
看護部 顧問 坂田 三允