~モチベーションマネジメント~④「良質なモチベーションは行動の後にしか発生しない」
2025/10/22
目標が設定できない私にできることをさがしていたら、「いつもモチベーションをアップする必要はない」という言葉が目に飛び込んできた。さらに「当たり前ならばモチベーションをアップする必要はない」やることが習慣になっていれば、結果は自然についてくる。なるほど。確かに。
さらに、行動する前の動機づけにモチベーションが必要というのはおかしい。というのもあった。モチベーションというものは天から降ってくるものではなくて、どっかから湧いて出るものでもなくて、順番でいうと行動が先にあって、ちょっとした結果があって、その結果がもたらすものがモチベーション。
確かに、何かやらなければならないことがあって、最初は「めんどうだなぁ」とか「いやだなぁ」とか思いつつやり始めると、いつのまにかいやな気持はどこかに行って、なんとなく、めんどうなことを楽しんでやりおえることってあるなぁと思う。クレペリンは、「何か作業を始めると、だんだん脳はその作業に合わせてやる気を出していく」それを「作業興奮」と名付けたのだそうだ。
暑くなる前に1時間だけと思って始めた草取りを2時間以上続けることもあるもんなぁと思う私。一応きれいになった庭を眺めるのはいいもんだ。満足感もあるしなぁ。「下手な考え休むに似たり」考えるより体を動かせということかな。
看護部顧問 坂田 三允
「ヘルプマーク」
2025/10/03
ここのところ、「ヘルプマーク」を目にする機会が増えた気がします。
白色の十字とハートがデザインされた赤いカードです。バッグやリュックなどにつけているのをよく見かけます。
バスや電車の中でもよく目にします。それだけ使用する人が増えているのと同時に、よく目立つようにデザインされているともいえるでしょう。
「ヘルプマーク」は、外見からだけでは分かりづらい病気や障害、困難を抱えている方が、例えば、電車で席を譲ってもらう、困ったときに声をかけてもらいやすくなるなど、周囲に支援や配慮を求めやすくなるために考案されたものです。
見た目だけではわからない妊娠初期の方や心臓病などの方、病気の治療中で急に体調を崩す恐れのある方や、精神に障害を抱えている方などが対象とされています。
確かに有用です。
しかし一方で、精神に障害を抱えている方の中には「ヘルプマーク」を使用することに戸惑いと躊躇を感じている方がいるのも事実です。
それは、これまでのあまりにも長い間、「精神疾患」「精神障害」に対し負のレッテル貼りが続いてきた歴史があるからです。
「ヘルプマーク」をつけることが、障害に対する新たなレッテル貼りになるのではないか。
「ヘルプマーク」をつけて助けや配慮を期待しても、逆に遠巻きに、偏見の目で見られてしまうのではないか。
このような不安・恐れ、葛藤から「ヘルプマーク」を遠ざけている方がいるのも事実です。
突き詰めると、精神科医療の歴史の中で常に大きな課題であった、そして今でも大きな課題である「スティグマ」(烙印)の問題にぶつかってしまいます。(今回のブログ記事では、スティグマについて詳述することはしませんが)
スティグマを軽減する社会、スティグマを生み出さない社会にしてゆくために、私たちにできることは何なのか。
「ヘルプマーク」の使用が増えてゆく現実は、あらためて社会的スティグマについて考える機会を与えてくれているようです。
前向きに考えるなら、それだけでも「ヘルプマーク」の意味は大きいといえるのかもしれません。
困っていますというサインを出す人に、ごく普通に手を差し伸べることができる、そのように「ヘルプマーク」が使用されると良いのですが。
精神科医 野瀬 孝彦
~モチベーションマネジメントのこと~③「目標を設定する」
2025/09/19
やる気を出すもとは自分の中にあるらしいということはわかったけれど、ハテ?
困ったときのGoogleさん頼み。モチベーションと入力してみたら、出てくる出てくる!!
部下のモチベーションを上げるには・・・などというものが一番多かったかな。でも、これは私には関係ない。私が知りたいのは、自分で自分のモチベーションを上げるにはどうすればいいのということなのだから。というわけでそれらしきことが書かれているものを探した。
その1。まず、目標を設定することだとある。目標を細分化する。しかも明確な達成基準があることが必要で、さらにその目標が自分にとって魅力的であり、目標レベルが適切であること。達成基準が五分五分の時モチベーションは最も高まるのだそうだ。さらに、たとえば、周囲の人に目標について話すなど。外的条件でしばりをかけ、強制的にやらざるを得ないようにする。目標を達成したときどんな感情が湧き上がってくるかイメージする。お説ごもっともなのだが、なんとなくすっきりしない。
たとえば、今の自分に当てはめて考えてみると、我が家は中古住宅で、前の持ち主が作られた庭がなんとも私の趣味に合わない。狭い空間なのにしだれ梅と百日紅、月桂樹、雪柳がドンと居座っている。手入れをしていないものだから、好き勝手に伸びて、縁側でジジババが茶をすすりながら眺めるイメージからは程遠い。腰の曲がったばあさんにできることといえば、せいぜい木の下に生えている雑草をとることくらいだ。目標が遠大すぎて、設定できない。
看護部顧問 坂田 三允
処方が間違っている
2025/09/05
精神科薬物療法は根拠のない出鱈目が多く、節操のない多剤多量処方による薬漬けが横行している、という非難が昔も今も方々から寄せられる。あながち事実無根の誹謗中傷ではないと感じる一方で、多くの精神科医はそこまでひどくはないですよ、とか、大変な患者の薬剤調整は一筋縄ではいかんのですよ、とつい言い訳が漏れ出そうにもなる。
この手の糾弾を浴びるのはひとり精神科医のみであり、他科の医師にはほとんど無縁ではなかろうか。むろん、どの科においても診断や病態を捉え損ねて薬剤選択を誤る、ということはあろう。無知に基づく誤りやバイアスによる逸脱は論外として、精神科においては診断や病態を正しく評価できていてもなお、薬剤選択や処方量がおかしくなることがありうることは、特筆すべきだろう。知識も経験も豊富なひとかどの精神科医にあっても、時として、処方変更を繰り返して一向に定まらない「彷徨的処方行動」1に陥り、患者が要求するがままに処方し続ける「白衣を着た売人」2に堕すことがありえるからには、事はそう単純ではない。
我々が処方する向精神薬が、主として精神症状を標的とし、脳=中枢神経系を媒介して心=体験世界を変化させる薬理作用をもつことは、その原因のひとつかもしれない。この構造ゆえ、効くと思い込めば効く(プラセボ効果)、効かぬと思い込めば効かぬ(ノセボ効果)、の主観的変数が大きく介在せざるをえず、患者のみならず治療者も、精神行動上の変化を主観的・間主観的に捉えて評価するほかなく、身体科薬物療法ような血液検査や画像による客観的な効果判定は不可能に近い。よく効きました、という安堵の表情を見れば少量単剤で済むものが、全然効きません、という焦慮の表情が続けば多剤多量に流されかねない。重い精神病症状や逸脱行動が遷延すれば、医師の焦りから無差別爆撃的な多剤高用量処方を招く恐れもある。
それがゆえにか、精神科医は向精神薬を単なる物質として患者に投与するのではなく、意識的にであれ無意識的にであれ、様々な想いを言葉とともに薬に乗せて差し出すようになる。それは、少しでも良くなりますようにという願いや祈りであることがほとんどだが、時には、いい加減にしてくれという陰性感情のこともあろう。薬物療法家の立場からすれば、こうした心理的夾雑性はできる限り排したいだろうし、精神療法家の立場からすれば、逆に薬という物質的夾雑性を邪魔に感じるかもしれない。しかし、実地臨床においてはあくまで両者のアマルガムしかありえない。
このことは、医師-患者の関係性そのものが薬効に大きな影響を及ぼすことにも通じる。身体治療と比較すればわかりやすい。例えば外科医であれば、いかに愚劣でも手術の腕前が超一流の方が、人格者ではあるがぶきっちょで手術下手よりも、明らかに治療的と言える。一方、精神科医であれば、少なくとも患者から信を置かれるに足るだけの誠実さや礼容等、その人間性が治療に少なからぬ影響を及ぼし、ひいては薬効をも左右する。安定した治療関係では処方はシンプルかつ少量に傾き、不安定な治療関係では多剤多量に傾きやすい。
さらに、精神科薬物療法は医師から患者へと一方的に投与されるものではなく、医師と患者が共同作業により産み出していく合作、という含みが強くなる。アレでもないコレでもない、と二人三脚で長い時間をかけて作り上げた処方レシピは、医師の存在とも相俟って、患者にとってなくてはならない支えとなる。さながら、長年連れ添った妻の手料理が、夫の日々を無言の裡に支えているように。
反対に難渋する治療においては、こじれた夫婦関係のように、いくら対話を積み重ねても軋轢が修復できず、溝が広がることもある。気づいた時には、患者もろとも多剤大量処方の海の中へ投げ出され、漂流している。そしてある日、増えども増えども一向に改善しないことに絶望した患者がオーバードーズし、救命救急外来に運ばれる。情報提供を求められた主治医は、自らの手による破廉恥極まる処方にあらためて直面し、愕然として天を仰ぐ。後日、患者にとっては行きずりにすぎない精神科医がコンサルテーションした結果、見事に減薬されてエレガントな処方となり、憑きものがとれたようにすっきりとして舞い戻ってきた彼女と対面した主治医は、茫然として再び天を仰ぐ。
だから、そのような処方を見つけたら、どうか勇気をもって声を上げてほしい。「センセー、その処方は間違ってます!」と。
副院長 栗田 篤志
1 中井久夫 2000 『中井久夫選集 分裂病の回復と養生』星和書店
2 松本俊彦 2021 『誰がために医師はいる クスリとヒトの現代論』みすず書房
(1895字)
~モチベーションマネジメントのこと~②
2025/08/06
モチベーションとは(行動などに対する)動機づけや刺激、やる気、意欲である。人が一定の方向や目標に向かって行動し、それを維持する働きともいえる。モチベーションは、ドライブ(動因、駆り立てるもの)とインセンティブ(誘因、行動を誘発するもの)という2つの要素から成り立つ。つまり、モチベーションを向上させるには、誘因か動因、あるいはその両方が必要ということになる。
(ふむふむ)
誘因は外部から報酬を与えて、モチベーションを向上させようとする方法で、外発的動機づけといわれる。特別ボーナスが出ることや、ほめられることがこれにあたる。
(う~んこれは余り期待できないぞ)庭の草が無くなっても誰も感謝などしてくれないだろうし、美味しい食事を作っても当たり前だものなぁ。
それに対して動因は自らの意思で主体的に目標を立て、目的に向かって行動を起こすような方法で内発的動機づけといわれる。
たとえば「衝動買い」はディスプレイが誘因になり、「買いたい」という動因が引き起こされた結果として生じる。また、「買いたい」という強い動因があれば、ディスプレイという誘因がなくても買いに行く行動は起こるが、いくら強い誘因があっても動因が生じなければ行動は起きない。(なるほど)
つまり、モチベーションをあげる(やる気を出す)もとは自分の中にあるということだ。
看護部顧問 坂田三允
毎日を元気に過ごす ~モチベーションマネジメントのこと~①
2025/07/22
片道2時間半の通勤が大変だと思うようになって、お仕事を減らした。長時間家にいることになって念願の「晴耕雨読の自由な生活!!」のはずだった。ところが、「ねばならぬこと」がなくなってしまったら、いやいや「ねばならぬこと」がないわけではないのだがそれこそ、締め切りのないいつでもできることばかり。生来怠け者(だったのかなぁ)の私は、だらだらとメリハリのない毎日を過ごすようになってしまった。何となく、元気いっぱいと言うわけにはいかなくなった。
元気が出ることってどんなことだろう。嬉しいことや楽しいことがあったとき?たとえばお仕事をしていて特別ボーナスが支給されることとか?それは「思いがけないことで嬉しいですね~」でも、仕事を辞めたらそんなことは起こらない。自分のしたことが高く評価されて褒められることや感謝されることなども、元気の元になるかもしれないけど、庭の草取りをしたからと言って、誰かがほめてくれるわけもないし、感謝されるわけでもない。楽しいことを計画していて、それが近づいてくるとなんだか浮き浮きして元気が出てくるということもあるなぁ。
楽しいことを計画する!!楽しいことはそれが終わってしまうと、「祭りの後」の虚しさが漂ったりはするけれど、それでも次の楽しみを計画すれば、再び元気になる。何より他者まかせではなく、自分の好きなようにできることがよい。いつも鼻先にニンジンをぶらさげないと走れない馬のようだけど、それで元気を維持できるなら、それはそれでよい。
というわけで、以前にちょこっとお勉強したことがある「仕事に対して元気に取り組んでいくための方法」であるといわれる、モチベーション・マネジメントのことを再学習(?)してみようと考えた。
看護部顧問 坂田三允
ハラスメントについて
2025/07/02
今、いろいろな「ハラスメント」が問題になっています。お客さんの立場からの過度な要求が「カスタマー・ハラスメント」と言われます。病院では「ペイシェント・ハラスメント」とも言いますね。患者さんご本人からのものもありますし、ご家族など関係者からのものもあります。
患者さん等から御不満の声などが寄せられる場合、もちろん病院が正しいばかりとは言えません。私たちが考え方ややり方を改めなければならないことも、実は少なくありません。当院もいろいろなルートで検討し、改めるべきところは改めてきているつもりです。
但し、すべてにお応えできるわけでもないのも、またご理解いただきたいところです。寄せられるご要望は人手があれば解決できるものが多いですが、それには人件費がかかります。病院は診療報酬で収入が細かく規定されており、営業努力などで増収を図ることには限界があります。むやみに人を増やすことができません。また、熟練した専門家には限りがあり、たやすく採用できるわけではないことも加わります。健康保険にはいろいろ不合理な制約もあって、求められた医療を行うことが医学的には妥当と考えられてもそれができないこともあります。
また、医療でできることについての理解が、ご本人やご家族と私たちとの間で差があり、そこが問題になることもあります。
実は、夜間や休日など、人が少ないときに、電話や対面で、患者さんやご家族から職員に、長時間のお話をされることが少なくなく、病院の大きな負担になっています。繰り返すように、私たちの対応に問題があり、当然のご要望のこともあります。しかし、そうではないこともあります。一般企業でカスタマーセンターのようなところがあるところもありますが、そういうところは多くは電話受付時間が平日日中ですし、電話をしても「ただいま電話が大変混み合っております・・・」となって待たされることがしばしばです。しかし、病院は、急を要する患者さんがいらっしゃるので、電話の24時間対応は当たり前で、職員も24時間誰かはおりますので、「逃げられない」立場にあります。このあたりも問題を複雑にしていると感じます。
さらに問題なのは精神科に固有の事柄です。特に患者さんご本人が、コミュニケーションに苦手な部分があることがあります。この場合は病院としてはそれに時間をとって対応することが求められると思いますが、大声、威圧などが加わって、ハラスメント類似の問題に至ることもあります。最近でも病院内での暴力が問題になっており、病院内はもとよりどこであっても暴力が許されないことは確かですが、暴力自体が症状である患者さんがいらっしゃることもまた事実で、これは「ハラスメント」として扱うよりも治療の対象としてみなさなければならないこともあります。こうした見極めを、私たちは日々求められています。
いずれにしても、なるべく良好な関係のもと、最善の医療を行い、患者さん、ご家族に満足いただける結果に導くことが最良であることは論を待ちません。当方も努力しているつもりですが、不充分な点についてはお聞きして改める用意があります。患者さん、ご家族の皆様におかれましても、病院の事情をご理解いただきますよう、この場を借りてお願いいたします。
院長 中島 直
人間関係って難しい(-_-;); コミュニケーションについて思うこと②
2025/06/18
看護は多くの人とのかかわりなしにはできない仕事である。看護師と患者の関係は、看護師を通して進展していく。
看護師としては、患者さんの情報を得るのは仕事のうちでもあるのだが、患者さんには、答えたくないことやときがある。ご家族は何人ですかと聞いたとき、嫌な顔をしたら、言いたくないことなのだな、と察することも一つの情報だろう。患者さんには鎧をつけている方もいれば、高い壁のある人もいる。「う~ん、めんどうくさいなぁ」と思わないでもない。だけど、鎧が1つずつ取れるのをゆっくりと待つしかないのである。無理にこじ開けると鎧がもっと強固になることの方が多いからだ。
看護という仕事に限らず、私は相手との関係を3つの階層の分類でとらえることにしている。第1層は、自分の家族だったり、大切な人 自分にとって重要な他者とのかかわり。第2層は、仲のよい友達。そして第3層はビジネスライクのおつきあいの人。
1層の人は別として、人との関係は、まず3層から始まる。ビジネスライクなかかわりの中で、何かのきっかけで、家族のことや趣味などの話題が出て、同調したり共感するようなことがあって、距離が少しずつ縮まっていく場合もある。すべての人間関係を3層から2層に発展させていく必要はないし、してはならない場合の方が多いかもしれない。けれど、3層の人の話も興味をもって聞いていると、時として、相手の気持ちがわかることがある。一線をひいての関わりであっても、相手に幸せな顔になってもらいたいという気持ちが生まれてくることもある。このときは、相手のためになりたい自分を楽しめばよい。あとで黒バックのような話になるかもしれないが、なっても後悔しない。自分がしたことは、自分で決めたことだから。
看護部顧問 坂田三允
備蓄米と健康
2025/06/04
5月に農林水産大臣が変わり、備蓄米がスーパーなどでも買えるようになりました。
お米が主食の私たちにとって、ふところ具合を気にせず“ご飯”が食べられることは、本当にありがたいことです。
そんな呑気なことを考えながら江戸時代の学者、貝原益軒の「養生訓」を読んでいると、“精白された白米は身体を弱くする。麦や雑穀を混ぜたほうが良い”とありました。
そうでした。白米ばかり食べていると「脚気(かっけ)」になってしまうのでした!
もっとも現代は副菜なしで白米だけを食べている人は少ないでしょうが、江戸時代は大都市「江戸」の上級武士や富裕層は白米をたらふく食べて「脚気」になり、下級武士や貧困層は麦や雑穀を食べて、「健康」だったようです。
これは「江戸わずらい」と呼ばれ、「江戸に長くいると足が立たなくなる奇病」と恐れられていました。
原因はビタミンB1欠乏症です。慢性的なアルコール依存症で発症する「ウェルニッケ・コルサコフ症候群」で出現する記憶障害や幻視もビタミンB1の欠乏によるものです。
ちなみに、ビタミンB12やビタミンB9(葉酸)が欠乏すると、妄想や被害感、抑うつ状態や認知機能の低下を引き起こすといわれています。
一時的には「認知症」を疑われることもありますが、欠乏を補えば症状は改善します。
「歯ぐきからの出血」が有名な「壊血病」はビタミンCの欠乏によるものですが、ビタミンCの欠乏は、思考の混乱や感情の極端な不安定さ、不眠などの原因にもなります。
また近年は、ビタミンDとうつ病、統合失調症、更にはASDとの関係も指摘され始めています。免疫や神経伝達物質、脳内炎症にも関係しています。
ビタミンDは食べ物から摂取すると同時に、日光に当たることで体内で作られるビタミンでもあることから、日照時間の減る冬に「気分が沈む」「やる気が出ない」などの症状のある場合は、ビタミンD不足を疑う必要があるかもしれません。
しかし誤解しないでください。ビタミンはたくさん取ればよいというわけではありません。
特に「脂溶性ビタミン」と言われる、(ビタミン)A,D,E,Kは身体に蓄積されやすく、中毒症状を起こし、腎機能や神経系が障害されることもあります。
「ドラゴンボール」に出てくる仙豆(せんず)とは違います。どれほどビタミンを取っても私たちはスーパーサイヤ人にはなれないのです。
お米も食べられるようになったことですし、一番大切なことは、バランスの取れた食事をして、朝日を浴びて、睡眠をしっかりとる。
これが一番健康によいのでしょう。
それが難しいのが、現代人なのでしょうが・・・。
副院長 野瀬 孝彦
人間関係って難しい(-_-;); コミュニケーションについて思うこと①
2025/05/28
もうすぐ傘寿を迎えようとしている歳になったというのに、いまなお、人間関係とはなんと難しいものなのだろうと思うことがある。人は一人一人異なった存在であり、外的体験は共有できるけれども、内的体験を共有することはできない。何人かの人が同時に同じものを見、同じことを聞いても同じように感じるわけではない。人が人とかかわるというのはその異なったもの同士がお互いに近づいていくということである。逆にまた、人が存在するということは、他者がそこに何かの意味を見出すなら、存在している人が意図しようとしまいと、何らかのメッセージは伝わっていくものでもある。
ずいぶん昔のことだが、ある患者さんから、「就職の面接にいくんだけど、いつものグレーのバッグと新しい黒いバッグのどっちをもっていったらいい?」とアドバイスを求められたことがある。いつものグレーのバッグは手垢などでかなり汚れている物だったので、面接ならば、きれいな黒いバッグのほうが印象がよいと考え、「黒いバッグの方がいいかなぁ…」と答えた。面食らったのは次の日のこと。彼女は面接の帰り道でコンタクトを無くしたという。そして「いつものバックなら無くすこともなかったのに、あんたのせいでコンタクトをなくしたのよ!!」と電話口で怒鳴りまくられたのである。
私は「私の意見を言っただけで、黒いバックにしなさいとは言っていない。どちらかを決めたのはあなたで、私に責任はない」といくら説明しても、相手には全く通用せず、しばらくの間彼女の怒りは収まらなかった。ぶちぶちと「坂田はそういういい加減な人間なのだ」と言い続けた。彼女の立場に立てば、恐らく、面接という緊張を強いられる場に出かけなければならないことで頭がいっぱいになっていたのだろう。自分で考えるなどということができなくて、私を頼りにし、全面的に私の判断に任せた。面接の緊張が続いたせいで、コンタクトレンズのことなど頭の中からすっかり消えていたのだろうとふと思い「ねぇ、あなた本当に黒いバッグにコンタクト入れたの?グレーのバッグ見てみた?」と言ってみた。彼女は、まさに我に返ったような感じで「え?」と聞き返し、しばらく間をおいて「あった」と小さな声で答えた。「ほら、みなさい」と言いたいところだったが私は「よかったね。じゃぁ、今日はゆっくり休んでね」と言って電話を切った。
多少「もやもや」が残ったままではあったが、「ま、いいか」と自分の心にけりをつけたと言うわけである。
看護部顧問 坂田 三允

