大変な患者を引き受けるということ
2024.06.28
当院は重症、難治、治療抵抗性、処遇困難等と称される、いわゆる大変な患者をできる限り断らずに引き受け、地域で支えることを実践している。例えば次のような面々を(いずれも実例に基づく架空のケースである)。
ある女性は恋人と同棲するという妄想に駆られて住居家財の全てを失い、路頭に迷って徘徊し、かかりつけにも入院を拒まれたため当院で引き受け、退院先を調整した。また、ある女性は困難にぶつかると暴力に訴える術が骨がらみとなり、どの医療機関からも拒まれ行政からも排除され、当院に流れ着いた。入院後も他患や看護師への暴言暴力は制御不能で治療は難渋を極めたが、粘り強く支援し、行政とも折衝して何とか地域に棲まわせた。ある男性は酒浸りで身を持ち崩し、家族からも職場からも見放され、身も心もボロボロになってなお断酒できず、入退院を繰り返したが、少しでも生き長らえるよう手を尽くして地域で支えた。また、ある男児は暴言暴力、窃盗、恐喝、性的逸脱、虚言と悪辣の限りを尽くし、家族からも学校からも見捨てられ、一時保護所でも暴れて手が付けられず、当院に入院した。入院後も逸脱行動を繰り返したが、成長を促し続けて一定の安定を得た後、地域へ戻し復学させた。
こうした大変な患者の支援を続けることは、むろん労多くたやすくはない。しかも大変なほど加算がつくということもなく、逆に人手はかかり持ち出しのほうが多いくらいだろう。では、なぜ引き受けるのか。なぜ社会から排除されるべき厄介者にそれほど肩入れするのか、と訝る向きもあろう。なぜならば、彼らは決して私たちの彼岸にいる全く異質な他者ではないからだ、と私は答えたい。彼らの生は、私たちの苦悩や困難の誇張された戯画であり、誰かの支えやたまさかの幸運の積み重なりがなければ陥っていたかもしれないという意味で、私たちの生の陰画(ネガ)である。いや、大変な患者とは畢竟、救いがたく愚かしい私自身の鏡像にほかならないのだ。だから、我が身を憐れみ慈しむように、微力を尽くして懸命に引き受け続けねばならないのだ。
診療部長 栗田 篤志